日常の中に
惨い事が起こったもんだ。
207系の絵が描いてあるアルミホイルみたいなものが、ぺしゃっとマンションの壁にへばりついている。
大事故の緊迫感というより、鉄路を颯爽と駆け抜ける姿とはあまりにもかけ離れた、何とも情けない姿という印象が目に焼きついた。
電車ってこんなになってしまうのね。そのことがまずショックだ。
そして、その“アルミホイル”の中に、ついさっきまで当たり前の日常を送っていた人々が閉じ込められ、亡くなられたことを考えると、言葉を失う。
絶対の安全なんて無いんだ、と思う。
変な話だと、いつも思うんだが、
自動車事故は起こした奴が悪い、ということになっている。
年間1万人も死んでいて、、誰もそのことの根本的な問題提起をしない。ニュースにもなりゃしない。
クルマはぶつかったときの安全対策が重視される。
鉄道をはじめ、公共交通では事業者が徹底的に責め上げられる。この通り連日の大騒ぎになる。
事業者の責任を問い詰めることに終始し、事故は絶対に起こらないという前提のもと、安全を確保する対象には“装置”でハリネズミにすることばかりが重視される。なんでこんなに違うんだろう。
人数の問題ではない。鉄道事業者が安全に対し手を抜けというわけでもない。
同じように人が死んでるのに、やっぱり矛盾を禁じえない。
責任を責め上げる前に、一体何が拙いのか、どこをどう直せばいいのか、ということをもっと冷静に考えることのほうが重要だろうと思う。工学院大の先生が提唱する、失敗学という奴だ。
運転士が失敗ばかりやる奴だと報道されている。
一方、最近では乗務員は促成栽培化が進んでいると聞く。
地元の東急では、以前は駅員4年+車掌2年で教習所入りし、それではじめて運転士になれると聞いた。
でも、近頃はワンマン路線が増えているので、その限りでもないだろう。契約社員の駅員も増えているようだし。
キモが据わる、なんていうけど、やっぱり物理的な理屈だけでは終わらない経験則ってあると思う。
体で覚える、って奴だ。
そういうの、最近ものすごく軽視されてないだろうか。
で、これは多分一企業に負わせる責任ではなく、利益一辺倒でそういう状況に追い込んでしまった今の社会全体の責任だろうと思う。
責任を負わせすぎの鉄道と、責任を負わなさすぎのクルマ。この辺の整理をしないと、マズイんじゃないかな。
電車に乗るという行為にも、乗客自身にも事故に遭う可能性への責任ってものがあるんじゃなかろうか。クルマがあれだけ自己責任なのならば。